はは、なるほどね。
どうしてそう思ったんだい?
ほう、それは────
──────────────────
◇◇◇
「ほぅ⋯」
久方ぶりに踏み締める「かつての我が家」の床は、記憶よりも少しだけ硬く感じられた。
月一で両親が手入れをしているおかげで、埃っぽさはない。
窓から差し込む陽光が、リビングの古びたテーブルを穏やかに照らしていた。
そのテーブルの隅には、先ほど八空さんから譲り受けたあの石が、
場違いな存在感を放ちながら鎮座している。
「さて、診空。久し振りの家だからって気持ちも分かるけど、あんまりごろごろしないの」
ソファに身を預け、もふもふのクッションを抱えて液体のように溶けている診空。
そんな堕落した妹に俺は苦笑交じりに声をかける。
「えへへ~、だってお兄ちゃん。ここのクッション、やっぱり落ち着くんだもん……」
にへら、と診空が笑う。
その屈託のない笑顔を見ていると、先ほどの謎の声への警戒心も少しだけ角が取れてしまう。
まぁ、そんなことを気にしていても仕方ない。今はせっかくの旅行中なのだから。
「ふふ、しょうがないなぁ。……流石にあの量を食べたとはいえ、お腹も減ってきたね。
「何か、簡単に作ろうか。」
時計は正午を少し回ったところ。
俺はキッチンへ向かい、冷蔵庫を覗き込んだ。備え付けの食材は限られているが、
パスタ麺と、地元福岡の特産品である明太子がいくつかストックされている。
「やったー!旅行先でもお兄ちゃんのご飯が食べられるのって、贅沢だよねぇ!」
診空がパタパタと小走りにキッチンへやってきて、カウンター越しに目を輝かせる。
俺は慣れた手つきで鍋に湯を沸かし、フライパンにバターを落とした。
芳醇な香りが立ち上り、明太子の皮を丁寧に外してボウルでソースを作る。
麺が茹で上がるまでの僅かな時間、包丁を動かすリズムが心地よい。
「おっと危ない、こっちは砂糖じゃなくて塩……」
不意に、自分の手が止まった。
パスタの隠し味にほんの少し甘みを加えようとして、手に取ったキャニスター。
中身を確認して、俺は眉を寄せた。
「……は?」
今、俺は確かに『砂糖』の容器を手に取ろうとした。
だが、実際に指が触れていたのはその隣にある『塩』の容器だった。
料理には一応自信がある、調味料の配置を間違えるなんてこれまでなかった⋯
(なんだ、何か引っかかるような……)
背筋に、冷たい針で撫でられたような微かな違和感が走る。
だが、背後からは診空の楽しげな声が聞こえてくる。
「にしても凄いよねー、星座異能って。お兄ちゃんの目がもっと良くなるんでしょ?
「それなら遠くのエネミーも丸見えだね!」
「……あぁ、そうだね。しっかり使いこなせるようにならないと」
俺は違和感を思考の隅に追いやり、仕上げた明太子パスタを皿に盛った。
まぁ、慣れない場所ならそういうこともあるのだろう。
◇◇◇
バターの香りと明太子のピリッとした刺激が食欲をそそる。
「はい、お待たせ。冷めないうちに食べよう」
「わぁ、美味しそう!いただきます!」
「いただきます。」
テーブルに向かい合い、診空が幸せそうにパスタを口に運ぶ。
俺も自分の分を一口啜り、その出来栄えに満足しかけて――ふと、視線を走らせた。
(……あの石はいつからなくなった?)
テーブルの隅。
そこにあるはずだった、八空からの「お届け物」である石が、影も形も消えていた。
診空が触れた様子はない。窓は閉まっている。
「……診空。あの石、どこに置いたか……」
問いかけようとして、言葉が詰まる。
窓の外。
穏やかだった福岡の空が、今の目には鈍色に映る。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
診空が不思議そうに首を傾げる。
俺は椅子を蹴るようにして立ち上がり、窓の外を――いや、そのもっと先を凝視した。
頭をよぎるのは、14:30という約束の時間。
少し目を時計にやると現在の時刻は14:28分とあった。
そして、今まさに体内で脈動を始めた、新しい『眼』の鼓動。
「診空、食事は中断だ。……空へ出るよ。来てる」
普段ならどんな急用でも料理を放置するなどなかったただろう、
だが今は違う。空劇はただ空の一点を見つめ、
診空が代わりにラップをかけて食事を中断する。
「え、エネミー?でも、何も見えないよ?」
診空の言葉は正しい。
肉眼で見える範囲に、異変はない。
だが。
俺の脳裏には、数キロ先でうごめく醜悪な影の輪郭が、強制的に焼き付けられていた。
◇◇◇
バルコニーを蹴り、二つの翼が空へと突き刺さる。
高度を上げるにつれ、地上を覆う喧騒が遠のき、代わりに耳元で風が鋭く鳴いた。
「お、お兄ちゃん、顔が怖いよ? まだ何も見えないし、本当にエネミーなんて……」
診空が隣を並走しながら、不安げに声をかけてくる。
無理もない。今の俺の瞳に映っているのは、通常の感覚系統では到底届かないものだ。
脈動する異能の鼓動。意識を一点に集中させると、世界の解像度が跳ね上がる。
星座異能『ぼうえんきょう座』。
視界の端が暗転し、代わりにある一点が何倍、何十倍へと拡大される。
数百メートル先。住宅街の路地裏、ビルの屋上、公園の茂み。
そこには、ここからの肉眼では決して見えないエネミーたちが、獲物を求めて蠢いていた。
(……見えた。一、二……全部で十二。弱い、だけど不快。)
「……随分と俺達を舐めた真似をしてくれるね。」
口から、氷のように冷たい言葉が漏れる。
その瞳は、もはや妹さえ見ていない。遥か遠く、
この状況を仕組んだ「主」の気配を睨みつけていた。
『良いね、すごく良い。』
『ただ⋯今はまだ無理だろうね 君がこちらを──』
脳内に直接響く、八空の飄々とした声。
少し前までは唯の面白い話をする人だったとしても、今は違う。
その声を、意識の刃で切り裂くようにして言葉を綴った。
「俺は、見た目で勘違いされるのは確かに嫌だ。」
「でもね、その先の中身で笑われるのはもっと嫌いなんだ。」
空劇の背後の翼が、怒りに呼応するように鋭く逆立つ。
「診空、行くよ」
数秒の使用で、視界が焼け付くような熱を帯びた。
強制的なインターバル、視覚が通常に戻る。
だが、獲物の位置は脳内に刻み込まれている。
「診空。三秒後にあそこ、あの灰色のビルの屋上に三体。」
「俺が撃ち落とすから、溢れたやつを叩いて。」
「ッ⋯わかった。」
診空は、兄のあまりに事務的で、慈悲のない声音に一瞬だけ身を竦めた。
いつもの温厚で優しい兄はどこにもいない。
そこにいるのは、不快なゴミを掃除するかのような、冷徹な天使の姿だった。
翼を広げ、空劇が指先を突き出す。
「【百翼軌跡】」
星座異能で確定させた座標へ、光が正確無比に放たれる。
逃走の余地も、咆哮の暇も与えない。
およそ800m先の屋上で爆ぜるエネミー。診空がそれを追うように突撃し、残党を翼で切り裂く。
「……次、東へ五百。高架下。」
空劇は止まらない。
インターバルが明けるたびに『ぼうえんきょう座』で視界を更新し、
チェス盤の駒を片付けるように、淡々とエネミーを消去していく。
目に若干の痛みが走るが、後遺症が出ない範囲だ。
その正確さは、もはや戦闘というよりは『作業』に近かった。
(残り三。)
苛立ちを精度に変え、空劇は空からエネミー達を蹂躙した。
大きな被害もなく、全てのエネミーが塵に帰るまで十分とかからなかった。
翼を休め、夕闇が迫る空に静寂が戻る。
「……終わったよ、診空。……診空?」
呼びかけると、少し離れた場所で診空が、肩で息をしながらこちらを凝視していた。
(⋯疲労か)
その瞳には、勝利の喜びではなく、正体不明の「恐怖」が滲んでいる。
「お兄ちゃん……今、自分でも気づいてないでしょ? ……すっごく、怖い顔してたよ。」
「……え?」
思わず素っ頓狂な声。
苛立ちに任せて異能を回しすぎたせいか。
それとも、相手への敵意が表に出すぎていたのか。
「……ごめん。少し、熱くなりすぎたかな。」
努めていつものように微笑もうとした、その時。
『掃除は終わったようだね。』
再び響く、あの声。
だが今度は、これまでの「いたずら」のような軽薄さがない。
空劇は反射的に、まだ熱を持っている眼を、福岡の地のさらに深く───
山の裏から少し見える、機械的な建物に目を向けた。
(……なんだ、あれは。)
空劇の感覚系統が、警鐘を鳴らす。
これまでの雑多な物とは次元が違う、圧倒的な質量を持った悪意が、そこに座り込んでいた。